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なぜ企業はアートに投資するのか 「問いを生む力」が未来を変える
サイレント・イノベーター #6


AIが進化し、正解を導き出すことそのものは容易になった時代。企業に求められるのは、課題を解決する力だけでなく、「何を問いとして立てるか」という力なのかもしれない。
その源泉として今、改めて注目されているのがアートや文化だ。
創業100年を超える化学メーカー・DICは、30年以上にわたりDIC川村記念美術館を運営してきた。そして2030年には、東京・六本木の国際文化会館との協業による新たな挑戦が始まろうとしている。
なぜ化学メーカーがアートに向き合うのか。なぜ文化を未来につなごうとするのか。
DICの技術革新と社会実装の挑戦を追う番組シリーズ「サイレント・イノベーター」。
今回は国際文化会館を舞台に、DIC株式会社 代表取締役 社長執行役員 グループCEOの池田尚志氏と、戦略デザイナーの佐宗邦威氏が語り合った。
そこから見えてきたのは、アート、技術、経営を別物と考えないDICの価値創造の思想だった。

(聞き手:フリーアナウンサー・須黒清華)
DICがアートに投資を続ける理由
須黒: 現在、日本の美術館運営は厳しい状況にあります。
文化庁は、国立美術館における展示事業の費用に対する自己収入額の割合を2024年度の53%から、2030年度に65%以上にし、将来的には100%を目指すという極めて高い目標を設定しました。
また、外国人観光客を含めた国立美術館全体での入館者数を、現在の約3倍にあたる計1,000万人程度まで引き上げる目標も掲げています。
佐宗: 世界的に見ると、日本はアートに対する支出や文化投資が比較的少ないのが現状です。
例えばイギリスでは、ミュージアムを無料開放することで、子どもの頃からアートに触れ、大人になっても足を運ぶという循環が戦略的に作られています。
日本でも、国全体で「文化的なリテラシー」を底上げする投資が必要です。

佐宗邦威氏/東京大学法学部卒、イリノイ工科大学デザイン学科修士課程修了。P&G、ヒューマンバリュー社を経て、ソニークリエイティブセンター全社の新規事業創出プログラム立ち上げなどに携わったのち、BIOTOPE創業。企業・組織のイノベーションやブランディングの支援、各社の企業理念の策定および実装に向けたプロジェクトを多数手がける。
池田: 私たちも30年間、DIC川村記念美術館を運営してきましたが、来館者数だけで収支を成立させるのは、正直に申し上げて難しい。
どのように魅力を上げ、運営コストを管理するか、長年悩み続けてきました。
海外では、無料の美術館も多くあります。ヨーロッパには観光産業として収益を循環させる仕組みがあり、アメリカでは個人や財団による寄付文化がスポンサーとして根付いているんです。
ヨーロッパの形がいいのか、アメリカの形がいいのか、あるいは日本独自のやり方がいいのか。美術館を運営する仕組みを広い視野で考えていかなければなりません。
今回、国際文化会館さんとパートナーを組むことにしたのは、その方法を模索しながら、より多くの方に新しい形で作品に触れてもらい、日本の文化的なリテラシーを上げる取り組みをしたいと考えたからです。

池田尚志(いけだ たかし)/1965年、大阪府生まれ。90年、慶應義塾大学大学院理工学研究科修士課程修了、同年大日本インキ化学工業(現DIC)入社。 2020年執行役員コンポジットマテリアル製品本部長、21年ファンクショナルプロダクツ事業部門長、22年常務執行役員、24年代表取締役 社長執行役員。26年より現職。
佐宗: 企業が文化資本に投資することには、経営的な意味も多分にあります。今の時代、企業が持つ無形資産と企業価値は強く連動していますから。
新しい価値を生み出せる人材を惹きつけますし、社員のセンスや感度も高まってイノベーションが期待できます。
須黒: アートへの投資が、経営に還元されるということでしょうか?
池田: 経済指標と、アートのように数値化が難しいものは、両極端にあるわけではなくシームレスにつながっています。
私たちは経済利益だけを追求しているわけではなく、社員や地域のコミュニティもある、社会市民的な存在でもあります。これらは簡単には切り分けられません。
佐宗: 企業が持つ文化資本は、私たちがその会社の姿勢を感じ取るコーポレートブランディングの強力な手段になりますよね。文化資本を増やすことで、企業のビジネスチャンスに変えていくこともできます。
池田: 文化とは、過去から未来へつながる土壌のようなものです。それを健康に保ち、耕し続けることで、その上に新しい文化が花開いていくと考えています。

須黒: それが巡り巡って、企業の利益として返ってくるということなんですね。
池田: はい、そう思っています。
絵画は化学で修復できる
須黒: DICがアートに関わるのは、美術館の運営だけではありません。化学の力で美術品を修復するという、化学メーカーならではの挑戦もされています。
池田: きっかけは、米国のロスコ・チャペルを訪れた際、ハリケーンで作品が損傷したのを目の当たりにしたことでした。

無宗派の礼拝堂、ロスコ・チャペル/Rothko Chapel, Houston, Texas
そこで修復家の方々と話をすると、出てくる言葉が「溶剤」や「接着剤」といった、私たちにとって馴染みのある化学用語ばかりだったんです。
例えば、絵画を補強するために保護材を塗ると、乾燥による「熱収縮」で表面が波打ってしまうことがあります。
これは化学の目線で見れば、物質が縮むという予測可能な現象です。私たちの知見を使えば、作品を守るために貢献できると考えました。
須黒: それで、修復支援組織「IACC(Institute of Art Conservation Chemistry)」を立ち上げたのですね。
池田: はい。私たちが直接修復するのではなく、素材や技術の提供を通じて、修復家や美術館をサポートしたいという思いで設立しています。
佐宗: 既存の技術をアートの修復に転用できることに気づいたのは、まさにイノベーションの思考ですよね。
研究者にとっても、自分たちの成果が文化を守るために使われることで、視野が広がると思います。

池田: 修復家の方から「もっと良い技術が生まれたときに置き換えられるよう、いつでも元に戻せるようにしてほしい」と言われたんです。目から鱗が落ちる思いでした。
今、良いと思っている技術が、未来永劫最良であるとは限らない。美術品は、100年、200年先のことまで考えて修復しなければならないんですよね。
この視点は、私たちのビジネスに対する考え方にも、大きな示唆を与えてくれています。普段陥りがちな考え方を見直すきっかけになっているんです。
佐宗: 面白いですね。アートに携わることで、「長く残るものを作るためには、どうしたらいいのか」という問いが生まれる。目の前の仕事だけをやっていては、気づけないことですね。
池田: そうですね。最近は、アニメの古いセル画の保存にも関わりはじめています。文化財として日本に残すために、果たすべきことがまだまだあります。
また、アニメの世界はデジタル化が進んでいます。デジタルアーカイブなら永遠に残ると思われがちですが、実は記録媒体の劣化などで、データが20〜30年程度で読み取れなくなる可能性があると言われているんです。
これからのデジタル時代において、いかに情報を後世に残していくか。ここでも私たちの技術が果たせる役割は大きいと考えています。
地政学的緊張の時代とアート
須黒: 2030年に開館する新美術館では、世界的に貴重な「新ロスコ・ルーム」も建設されるそうですね。
池田: DIC川村記念美術館では、アメリカの画家マーク・ロスコの「シーグラム壁画」7点を専用空間で展示していました。

DIC川村記念美術館の「ロスコ・ルーム」 © 1998 Kate Rothko Prizel & Christopher Rothko / ARS, New York / JASPAR, Tokyo G4391
ロスコ作品を専用で展示している場所は、世界でも希少です。国際文化会館への移設後も継続したいと思い、建築家ユニットのSANAAに設計をお願いしています。
SANAA
金沢21世紀美術館などを手掛けたことで知られる、妹島和世と西沢立衛による日本の建築家ユニット。2010年、建築界最高峰と称されるプリツカー賞を受賞。
佐宗: 都心で、しかもSANAAの設計となれば、より多くの人がアートに触れる素晴らしいきっかけになりますね。
池田: 国際文化会館さんの使命である民間外交と、私たちが守ってきたアートが融合する場所になります。
地政学的な緊張が続く今だからこそ、アートという媒体を通じて人がつながる場を持つことは、大きな意味がある。
こうした活動は、社会基盤の安定やマーケットの健全性にもつながり、企業にも返ってくると思っています。
問いを投げかける力はアートから
須黒: 一企業がこれほどアートに注力するのは簡単な決断ではないと思います。池田社長を突き動かすものは、何でしょうか。
池田: DICの経営ビジョンは「彩りと快適を提供し、人と地球の未来をより良いものに-Color & Comfort -」です。
この「Comfort」とは、マイナスをゼロに戻す「なくてはならないもの」。「Color」とは、ゼロからプラスへ、楽しさや感動を生む「あるとうれしいもの」だと考えています。

その楽しさや感動を生むために必要なのが、根源的な「問いを投げかける力」です。
AIが発展する社会で、私たちは「人間としての幸せとは何か?」という問いを常に持たなければなりません。
そのとき、立ち返る場所になってくれるのがアートです。
これからの時代は、物事を別の視点で捉え直すことが求められますし、研究者や事業推進者にとっても重要な姿勢になります。
佐宗: 気候変動やAIが広がるなかで、人間の美意識や本質を考えるヒントが、アートには詰まっていますね。
素材の価値は無限大
須黒: DICは、「Direct to Society」という考え方を掲げて、能動的に課題解決に動かれています。
池田: 私たちはBtoBの化学メーカーなので、消費者の皆さんに製品や思いを直接届ける機会が少なかった。しかし、これからは待っているだけではダメです。
自分たちで課題を探し、社会や消費者の方々に問いを投げかけ、みずからマーケットを生み出していく必要があります。
長期経営計画「DIC Vision 2030」でも、社会に直接働きかける活動によって事業を成長させていく方針を立てています。
須黒: DICが意外な領域に進出しているのは、アートだけではないとか。
池田: はい、このお皿を手に取ってみてください。
佐宗: すごく軽い!

池田: 実はこれ、自動車のエンジン部品や水道の耐久パーツに使われる「PPS」という特殊なプラスチックが原料なんです。見せ方を工夫することで、お皿にしてみました。
陶器のようで陶器ではない、そして食洗機にもかけられる、これまでにない器です。
須黒: 食洗機にも入れられるとは、驚きです。

池田: 他にも、中国のデザイン上海というイベントで、白や黒のイメージが強いヒューマノイドロボットに意匠性のあるカラーを提案しました。

Presented by DIC / Sun Chemical Pigment & PPG China Application Innovation Center Robot: AGIBOT central R&D department
また、ラディリスという、生花に特殊な色素を持つ液体を吸収させ、暗闇でも光るシステムを作ったりしています。「花は二度咲く」というコンセプトで、色の視点で新しい美や体験を提供しているんです。
このように、インキや素材にとどまらず、新しい可能性を追求しているところです。

佐宗: 顧客の要求通りのものを作るBtoB企業から、技術を転用して、みずから価値を提案する能動的な組織へ。
Direct to Societyという考え方が、社内の意識を大きく変えているのを感じます。
須黒: 100年という歴史や技術を守りながら、どんどん新しいことに挑戦しているんですね。
佐宗: 「色」は普遍的なものなので、できることが広いんですね。世界情勢に不安を感じている人も多いなか、DICは彩りのある明るい世の中を作り出せる可能性にあふれていると思います。
池田: はい。これからも、化学の力で製品を作るだけでなく、文化資産を守り、社会とつながりながら新しい価値の創造にチャレンジしていきたい。
化学を超えて、文化の未来を作っていく思いで進み続けたいと思います。

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