「化学はニッチも面白い!」DIC開発者が語るEU域内の環境規制に対応するコバルトフリードライヤー

2021.10.29 事業を通じた社会貢献

塗料や印刷インキの塗布後の乾燥(硬化)を促すドライヤー(乾燥促進剤)。従来はコバルト(Co)が材料に用いられてきたが、一部化合物に発がん性等の有害性が懸念されていることや産出国の偏在による価格変動が懸念されることから、EU域内でコバルトフリードライヤーのニーズが高まっていた。こうした社会課題を解決するために DICは、EUの環境規制に対応した塗料や印刷インキに用いられるドライヤーを開発した
この記事では、コバルトフリードライヤーの研究・製品開発に携わったDICの社員3名がその開発秘話を語る。

(写真左より)パフォーマンスマテリアル製品本部機能性添加剤営業グループ 栗山貴光さん、加工技術本部加工技術3グループ 中野宏明マネジャー、パフォーマンスマテリアル製品本部機能性添加剤営業グループ 山本 亮主任

安全性や価格変動懸念からEU域内でコバルトフリーニーズが強まる

DIYでペイントをした部屋の壁や家具の表面は乾くのに内部は中々固まらない…。そんな経験をしたことはないだろうか?
実のところ、この現象は塗料内部の樹脂の分子同士が結合するまでに時間がかかっているため起きている。
DICでは、そんな塗料や印刷インキの乾燥(硬化)を促すドライヤー(乾燥促進剤)を製造し、自社製品の印刷インキに添加するだけでなく、ドライヤー単体を世界各国の塗料・印刷インキメーカーに納入している。表面乾燥(硬化)に優れたタイプや、内部乾燥(硬化)に優れたタイプなど、さまざまな製品をラインアップするほか、際立った特性を持つ高性能タイプはDICNATE(ディックネート)というブランドで製品展開中だ。

このドライヤーの材料として使われてきたのが乾燥(硬化)性能に優れたコバルト(Co)。2019年時点で世界生産量約71%、埋蔵量約51%※1がアフリカ中部のコンゴ民主共和国に集中するレアメタル(希少金属)だ。同国は政情が不安定なため、常に調達リスクにさらされている。また、ここ数年、脱炭素の柱として期待される電気自動車(EV)向けリチムイオン電池の正極材用需要が大幅に拡大し、需給逼迫も懸念されている。
このコバルトをめぐる世界の状況についてDICの加工技術本部加工技術3グループ 中野宏明マネジャーは次のように語っている。

「近年の大幅な需要拡大を受けて、今後コバルトの価格高騰が予想されるほか、一部化合物に発がん性等の有害性が懸念されており、EUの化学業界ではコバルトフリーニーズが高まっていました。そうした課題解決のために、安全性の高いコバルトフリードライヤー開発を目指すことは、DICにとっても新たなビジネスチャンスであり、持続可能な社会を実現していく一つの取り組みになると考えたのです」

※1: JOGMEC コンゴ共和国資源データ
コバルト調達の諸課題への対応の為、当社ではサプライチェーン調査を実施している。
詳しくはこちら

私たちの生活に欠かせない塗料やインキ。美しい塗装や印刷には乾燥剤は必要不可欠

REACH規則によりEU域内の化学物質規制が強化

  そもそもEU域内でコバルトフリーが進むきっかけの一つとなったのが、2007年6月に発効した化学品登録・評価・認可および制限に関する法律である「REACH※2規則」だ。これにより、域内に化学物質を年間1t以上持ち込む場合は、欧州化学品庁(ECHA)への登録が必要となったうえ、有害性懸念のある化学物質は使用禁止あるいは使用規制が設けられた。さらに、その1年半後の2009年1月に化学品の分類・表示・包装を規定する法律である「CLP※3規則」が発効され、EU内に持ち込まれる化学品には、一目で危険有害性レベルが把握できる「GHS※4ピクトグラム」の表示が義務づけられることに。2003年制定のRoHS指令(特定有害物質使用制限に関する法律)に加えて、REACH規則とCLP規則という2つの化学品に関する法律が適用されることになり、EUの産業界では安全・環境への意識が高まっていった。

DICの乾燥促進剤GHSピクトグラム。
新開発製品の表示義務は1つもしくは2つと限りなく少なくなっている

※2:Registration,Evaluation,Authorization and Restriction of Chemicalsの頭文字の略称。
※3:Regulation on Classification,Labelling and Packaging of substances and mixturesの頭文字の略称。
※4:Globally Harmonized System of Classification and Labelling of Chemicalsの頭文字の略照。化学品の危険有害性(ハザード)ごとに分類基準及びラベルや安全データシートの内容を調和させ、世界的に統一されたルールとして提供するもの。

  もちろん、米国の「TSCA※5」、日本の「化審法※6」など、世界各国に化学物質の規制に関する法律はある。しかし、EUおよび韓国などわずかな国・地域以外では新規物質のみを届出するしくみになっていて、既存の化学物質についてはEUほど規制が厳しくない。
  その一方で、「REACH規則」は、新規・既存を含むあらゆる化学物質の届出を義務付けているため、EU域内はより厳格な化学物質使用規制が行なわれていると言えるだろう。ちなみに英国はEUから脱退したため、2021年1月から「UK  REACH」という「REACH規則」に準拠したルールで化学品を規制している。

※5:Toxic Substances Control Act(有害物質規正法)
※6:化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律の略称

「こうした化学品の規制強化の動きを受けて、ドライヤーなど多様な分野で非コバルト化に向けた研究開発がEUの化学業界で活発化していきました。そこで、DICも2010年ごろからコバルトフリードライヤー開発に取り組みはじめたのです」と、パフォーマンスマテリアル製品本部機能性添加剤営業グループ 山本 亮 主任は、DICが開発に着手するまでの経緯を説明してくれた。

添加剤の営業担当である山本 亮主任は「日本とは違った、EU市場の規制の厳しさにくやしい経験を何回もしてきた」と話す

  DICでは、コバルトの代替となりうる候補物質をいくつか選定し、コバルトフリードライヤーの設計に取り組んでいたが、規制自体が年々厳しくなり、設計のやり直しが求められるなど、なかなか期待通りの成果を上げられずにいた。

「以前はヨーロッパに頻繁に出張し、塗料・印刷インキメーカーの担当者と面会する機会もあったのですが、彼らは安全や環境への意識が高く、たとえ『コバルトフリーで設計しました』とアピールしてサンプルを提出しても、他の部分で若干でも懸念される部分が発見されたら、それ以上は一切取り合ってくれません」(山本主任)

「安全性最優先」の方針の下で実験を重ね、コバルト同等以上の完全乾燥(硬化)時間を達成

  2020年に、中野マネジャーが開発責任者に就任してからは、過去のEUでの経験を踏まえ、開発ポリシーを「安全性最優先」へと変更し、設計自体も一から見直すことになった。しかし、安全を優先すれば性能が伴わなくなることは容易に想像できるため、そこをどうやってブレイクスルーするかが課題だったという。
「今回、ドライヤーのベース材料として採用したのは、健康有害性懸念の低いマンガン(Mn)ですが、コバルトよりも劣る乾燥(硬化)性能をどうやって引き上げるかがポイントでした。ただし、別の用途では、ベース材料の性能をアップする基本技術はすでに実現していたため、マンガンの性能を向上させる添加剤とマンガンをどうミックスしていけば、期待するパフォーマンスを発揮できるか、実験を通じて検証していったのです」(中野マネジャー)

マンガン(Mn) 単体は銀白色の金属

  ドライヤーの応用評価実験には、最大10レーンを使って同時測定ができる「塗膜乾燥時間測定機(ドライングタイムレコーダー)」を使用。原料の種類や量の異なるドライヤーを混ぜ合わせた塗料・印刷インキをガラスプレート上に一定の膜厚で塗り、その上を移動する針が生みだす塗膜の変化によって、乾燥(硬化)時間を読み取るという流れで進められた。
「今回の実験で材料を混ぜ合わせたり、塗料の乾燥(硬化)時間を評価したりする作業は、私自身で行うことを大切にしていました。このことにより、ベース材料変更で生じる塗料の変化や調色への影響などを実感として把握できたので、今後塗料や印刷インキメーカーの担当者にも現場視点での有益なアドバイスができると思っています」(中野マネジャー)

  そうやって1年にわたって実験を続けた結果、塗料・印刷インキ共に、マンガンベースでありながら、コバルト同等以上の完全乾燥(硬化)時間を達成した。それは、EU域内でも十分に通用する高い安全性と乾燥(硬化)性能を備えたドライヤーの完成というゴールが見えてきた瞬間でもあった。

「塗膜乾燥時間測定機(ドライングタイムレコーダー)」

塗った直後は液体なので破けず、徐々に乾燥(硬化)し、完全乾燥(硬化)すると破れがなくなる

米国子会社Sun Chemical と協力しながらEU向けプロモーションを展開

  ただ、コロナの影響で、せっかくの成果をEUまで届けられない状況が続いていたため、2021年4月、今回の開発品である2品種(アルキド塗料用「DICNATE ESG-130BZ」、塗料・印刷インキ用「DICNATE MV130A」)のプレスリリースをウェブページ上で発信。

同時にDICグループの米国子会社であるSun Chemical Corporationと協力し、EU域内の塗料・印刷インキメーカーに向けたサンプルワークを開始した。
  その中の数社から問い合わせが来るなど、ポジティブな情報が次第に集まり始めている。この2品種の中でも「DICNATE MV130A」は、植物系エステル溶剤を使用することで従来の炭化水素系溶剤と比べ健康や環境への有害性を低減でき、そこも高く評価されたポイントだと思われる。
「現時点は上市まであと一歩という状況です。高評価をいただいた塗料メーカーに向けて、実際の製品に近いレベルまでスケールアップしたサンプルを提供する準備をしているのですが、それでゴーサインが出たら、いよいよ製品として出荷できると思っています」(山本主任)

  こうしたEU域内への市場参入を目指す世界各国の同業他社の動きについて、DICパフォーマンスマテリアル製品本部機能性添加剤営業グループ栗山貴光さんに解説してもらった。

「先日、大阪で開催された『関西サステナブルマテリアル展』にDICも出展しましたが、バイオマス原料を使った樹脂製品などリサイクル分野への来場者の関心は高かったものの、コバルトフリーへの関心はまだ低く、これが今の日本の状況を反映しているのかなと思いました。

  その一方、欧州の化学業界のコバルトフリーシフトは鮮明で、新技術開発に向けて各社凌ぎを削っている状況です。この中で代表的なものが、DIC同様にマンガンベースに添加剤の工夫で性能向上を図る方法ですが、新規材料の応用やコバルトをポリマ化することで規制の突破を目指しているメーカーもあります。こうした先行するライバルメーカーに打ち勝つべく、DICとしてもさらなる性能向上を目指しています」。

機能性添加剤の営業を担当する栗山 貴光さんは「世界を見据えると、環境に配慮した製品開発が不可欠です」と話す

新技術でSDGsが掲げる社会問題の解決にも貢献したい

  今回のコバルトフリードライヤー開発は、安全・環境保全に貢献するという点で、国連サミットで採択された持続可能な社会のための国際目標である「SDGs (Sustainable Development Goals)」と親和性の高い活動だと言えるだろう。
「私はDICでの業務の傍ら大学の非常勤講師を務めていて、講義の中で今回のDICのコバルトフリーに対する取り組みについて学生に話したのですが、社会課題やSDGsへの学生の関心は高く、『DICが先進的な技術開発をしていることが分かった』『将来、自分も安全や環境保護に貢献する技術開発がしてみたい』といった感想が寄せられています。
  また、講義中に、塗料の乾燥(硬化)実験の様子を写した画像も紹介したのですが、それを見た学生からは『コロナ禍で実験ができないので、久々に実験室の雰囲気を味わえてよかった』という声も寄せられました」(中野マネジャー)
  4月のプレスリリース公開後には、米国の世界的IT企業の開発部門の役員から「脱コバルトを目指すDICの方向性を高く評価する」と記したレターが突然送られてきたという。
「ご本人とは全く面識はなかったので突然のメールをいただき非常に驚きました。しかし、持続可能な社会を作っていこうとするDICの姿勢を評価いただけたのだと、大変光栄でしたし、今後の取り組みへのエールと感じています」
  この9月に、私はコーティング分野で世界的に権威のある「ECS(European Coatings Show )カンファレンス」でスピーカーを務めることになっています。そこで今回の開発品について業界関係者に関心を持ってもらいたいと考えています。」(中野マネジャー)

将来的には、よりサステナブルな原材料を使ったドライヤー開発が目標

  今回DICがEU向けにコバルトフリー技術の開発に注力しているのは、いずれ日本や米国にもこうした規制が波及すると考えていることが大きい。また、将来を見越した先進技術を磨いておくことで、国内のお客様にも安心感を提供できるに違いない。
「それが2年後なのか10年後なのかは分かりませんが、今のうちからしっかりと備えておきたいですね。今のEU市場で戦えるだけのポテンシャルがあれば、他の国や地域では十分通用するはずだと考えています」(栗山さん)

  今後DICのドライヤー開発はどんな方向を目指しているのだろう。

「現在使っているマンガンも将来的にはEU域内で規制される時代が来るかもしれません。そこで、私たちはよりサステナブルな原材料を使ったドライヤー開発を最終ゴールに置いています。相当ハードルが高い目標ではありますが、とにかく現状に甘んじることなく、さらなる上を目指していきたいと思っています」(中野マネジャー)

  通常、人の目には触れない添加剤のため、認知度は低いドライヤー。ただ、塗料・印刷インキ業界では、現場の生産性向上に大きく貢献するためその重要性は計り知れない。そうした縁の下の力持ちのような材料開発に取り組む魅力について、最後に中野マネジャーに聞いてみた。

「色鮮やかな塗料や印刷インキが用いられた建物や出版物は、毎日の生活や人の感性に大きな影響を与えています。ドライヤー開発を通じて私もその技術の一端を担っていますが、今回のコバルトフリー化やより安全な溶剤への代替の取り組みを通じて、生活の豊かさや快適性に、安心安全・環境負荷軽減も加えた開発を大きく進めていきたいと考えています」

今回のインタビューでは、
DICプラスチック株式会社がWithコロナ時代の新しいニーズに対応した飛沫感染対策製品である 『フェイスシールド』を利用し行われました
DICプラスチック株式会社のウェブページはこちら

「DICカラーガイド」色見本帳」

日本の伝統色 DIC-N890
由来:輝コバルト鉱からとるアルミン酸コバルトの顔料で、今は有機合成化学の発達によりあらゆる色相に鮮明な色が出せるが、コバルトブルー(cobalt blue)は、無機化学の成果による無機顔料の色から来た色名である。

※取材は2021年7月に行われ、確認を行った内容となります